日時計の一種であるこの碑で計った時刻をもとに水争いを解決し、笠田大溜の水は公平に分配されるようになったと言われており、平和のシンボルとされています。 員弁町笠田新田にある笠田大溜は、伊勢風土記には伊勢国の三大池の一つで野摩池という名であったと書かれています。寛永13年(1636年)、当時の桑名藩主であった松平定綱は、大泉新田と笠田新田両地区の開発のため、灌漑(かんがい)用にこの大溜を改造し、100ヘクタールもの水田を潤したとあります。 しかし、水田の増加によって用水不足のため水争いが度々起こり、死者が出るまでの争いとなりました。そこで、弘化4年(1847年)、当時大泉新田の里(さと)長(おさ)をしていた懸(かけ)野(の)松(まつ)右(う)衛門(えもん)の考案で、夕陽の当たる水路の分岐点に「刻限日影石」を建て、石に分水時刻を刻入し、大泉新田は日の出から7つ半時まで、笠田新田は7つ半時から日の出までとすることに合意し、和解が成立、仲裁役には羽津村庄屋藤谷傳之(はずむらしょうやふじたにでんの)助(すけ)が入り藩庁の裁可を得て建てたということです。これによって長い間続いた争いがなくなったということです。 ※ 昭和42年(1967年)2月10日 三重県指定有形民俗文化財に指定 ・・・・・いなべ市情報誌Link「めざせ!いなべ通!!」から一部抜粋しました・・・・・
日時計の一種であるこの碑で計った時刻をもとに水争いを解決し、笠田大溜の水は公平に分配されるようになったと言われており、平和のシンボルとされています。
員弁町笠田新田にある笠田大溜は、伊勢風土記には伊勢国の三大池の一つで野摩池という名であったと書かれています。寛永13年(1636年)、当時の桑名藩主であった松平定綱は、大泉新田と笠田新田両地区の開発のため、灌漑(かんがい)用にこの大溜を改造し、100ヘクタールもの水田を潤したとあります。
しかし、水田の増加によって用水不足のため水争いが度々起こり、死者が出るまでの争いとなりました。そこで、弘化4年(1847年)、当時大泉新田の里(さと)長(おさ)をしていた懸(かけ)野(の)松(まつ)右(う)衛門(えもん)の考案で、夕陽の当たる水路の分岐点に「刻限日影石」を建て、石に分水時刻を刻入し、大泉新田は日の出から7つ半時まで、笠田新田は7つ半時から日の出までとすることに合意し、和解が成立、仲裁役には羽津村庄屋藤谷傳之(はずむらしょうやふじたにでんの)助(すけ)が入り藩庁の裁可を得て建てたということです。これによって長い間続いた争いがなくなったということです。
※ 昭和42年(1967年)2月10日 三重県指定有形民俗文化財に指定
・・・・・いなべ市情報誌Link「めざせ!いなべ通!!」から一部抜粋しました・・・・・