大安町(文化財ほか)
- 貨物鉄道博物館
- 鴨神社
- 屋奉(夜火)松明(市無形民俗文化財、現在3年毎に開催)
- 創作絵馬博物館
- お千代稲荷
- 金剛山 持光寺(大正図書博物館)
- 伊勢輯雑記(持光寺(大正図書博物館)蔵)
- おかげまいり旅立ちの地
- 法輪山 教楽寺
- 大神社
- 員弁第一街道
- 片樋まんぼ(市無形民俗文化財)
- 生水まんぼ
- まんぼ
- 木造薬師如来坐像(光蓮寺)
1. 貨物鉄道博物館
日本で唯一、鉄道貨物輸送を対象としている博物館である。
鉄道による貨物輸送は明治6年(1873)9月15日に始まって以来、130周年を迎えるのを記念して、平成15年(2003)9月15日に、三岐鉄道主催「ひと駅いちテーマ」の一環として丹生川駅構内に開館された。明治31年(1898)のイギリス製蒸気機関車や現存する最古級の車両などが展示されている。展示車両はいつでも見学可能であるが、貨車の部品展示や図面、パネル展示や鉄道模型の大ジオラマなどは室内展示で、毎月第1日曜日(1月のみ第2日曜日)に開館される。
2. 鴨(かも)神社
延喜式内社。祭神は鴨別雷神(かもわけいかづちのかみ)、玉依姫命(たまよりひめのみこと) 他十一座。
「大安寺伽濫縁起並流記資財帳(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)」(天平19年(747))に、「・・・四至、東鴨者、南坂河、西山、北丹生河・・・」の記載があり、当社の創立は極めて古い。
「伊勢輯雑記(いせしゅうざっき)」には「御祭礼は湯立、屋奉松明(やほうたいまつ)、弓渡(ゆみわたし)、飛御神角力(とびごしんずもう)、例年貴賎を問わず群集して参詣者多し」とあり、以前は大いに賑わった。
3. 屋奉(やほう)(夜火)松明(たいまつ)(市無形民俗文化財、現在3年毎に開催)
鴨神社創立時の京都より御神宝を迎えたときの模様をかたどって始められたという。大勢の若者が巨大な松明(長さ5m、重さ900Kg)を掛声勇ましく動かす様は壮観である。
4. 創作絵馬博物館
館長が創作した絵馬を中心に展示されている。
絵馬は古代日本、中国、韓国においても創作されてきた。人間のはかり知れない願いや祈りを絵馬に託し、神仏に奉納される本博物館では、伝統ある日本の古材、特に欅(けやき)・杉・檜(ひのき)などの色々な素材を利用して節目や板目を生かし、絵馬を美術的・芸術的に作品化している。
5. お千代(ちよ)稲荷
お千代保(ちょぼ)稲荷と呼ばれることもある。
伝説として以下の話が地元に残っている。
商売の神様として参詣者の多い須脇(海津市平田町)のお千代保稲荷神社は、江戸時代丹生川中で現在も稲荷屋敷と呼ばれる葛巻信宅の西隣に祀られていたという。その頃、奉仕していたお千代婆さんがやんごとなき理由でこの地を去るとき、信仰していたお稲荷さんもいっしょに移したという。
一説に、お千代婆さんは森源左衛門の妻ではないかという。森源左衛門は、文政6年(1823)桑名藩内北勢地区で発生した農民騒動の首謀者の一人として処刑されたといわれている。
6. 金剛山 持光寺(大正図書博物館)
浄土真宗本願寺派。初め、久保院阿弥陀堂と号し、もと尾張国にあったといわれるが、室町時代に北勢町治田寺山(はったてらやま)の東麓に移った。織田信長により堂宇をことごとく焼失したため丹生川の現在地に移された。その後、小杉村に持光寺を建立し、丹生川の旧坊は通寺となり留守居がおかれるようになった。幕末の頃、長楽寺に生まれた僧宗英(そうえい)(第20世)が来て独立寺院とし、明治14年(1881)に現在の本堂が建立された。大正図書館は大正2年(1913)に開設された。第21世巌英(がんえい)がアメリカに布教に出かけた時、各村に図書館があるのに感化され、帰国後庫裏を改築し図書館とした。「伊勢輯雑記(いせしゅうざっき)」の自筆本などが保管されている。
7. 伊勢輯雑記(いせしゅうざっき)(持光寺(大正図書博物館)蔵)
伊勢輯雑記は丹生川下村(現在丹生川久下)の医師 松宮周節の著作で、伊勢国に関する歴史、地理などが詳細に記載されている。本書の成立は概ね文政4年(1821)頃と思われるが、全体の完成は文政(1818~)~天保(~1845)の間と推定される。当時、「勢陽雑記(せいようざっき)」などがあったが、南勢に詳しく、本書では各郡村等しく記録しようと、各地を巡りまとめたといわれている。
8. おかげまいり旅立ちの地
丹生川の地は古くから「御厨(みくりや)」(神鳳抄(じんぼうしょう):延文5年(1360)完に丹生川御厨の記載あり)として神社の社領となり、米や麦の初穂を供える神宮崇敬の習慣があった。江戸時代末期には、伊勢神宮への「おかげまいり」が盛んに行われ、この地を出発の地、迎えの地とした。後に代参(だいさん)といって毎年各隣組から1~2名づつ村民の代表として参宮していた。石燈篭は天保2年(1831)に献燈されており、「伊勢輯雑記」にも記載されている。
代参
遠方の寺社参詣のために代表をたてる制度。多くは講が作られた。
9. 法輪山 教楽寺
浄土真宗本願寺派。江戸時代中期に書かれた当時開基略縁起によれば、当時の開基は宇多源氏の流れである近江国の住人 木村氏で、兵を率いて上洛した際蓮如上人に教えを受け、当地で草庵を結んだ。法名を善智という。一方「伊勢輯雑記」には宇多源氏の佐々木氏が、近江で地頭職を奪われ、当地で教楽寺を草創したと記載されている。他の一書では、僧行基の開基で、里人に地名の由来となる灌漑の方法を教えたと伝えられている。行基の去った後、絵師の立玄が留まり法相宗を説いたが、その後、天台宗、真言宗、第25代の善智のとき浄土真宗に転じたという。寺宝として、平安時代の恵心僧都(えしんそうず)の作と伝えられる十一面観世音菩薩立像がある。
10. 大神社(おおみわのやしろ)
延喜式内社。祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ) 他八座。奈良県大神神社(おおみわじんじゃ)の分社である。「往古当社は大社にて社領も多く神宮寺迄在りしが(平安末期頃には)永禄年間織田信長北勢乱入の砌(みぎり)、当社並に神宮寺を焼討ちし社領、寺領を没収す・・・以来かたの如く廃したりと云う」(北勢古志(江戸時代後期)より)神社に伝わる古文書には「桑名領主松平公参拝あり、・・・を寄進され、葵の紋の使用を許された」とある。更に慶応3年(1867)有栖川宮(ありすがわのみや)の御祈願所となり、幕・提灯が寄進されている。縄文時代後期のものといわれる石剣(せきけん)、石棒(せきぼう)が神宝としてあり、その創建はかなり古いと推定される。境内には池沼(ちしょう)があり、雨乞いすると必ず雨がいただけるといわれる水神様が祭られている。
11. 庄屋の墓
片樋地区の先人たちは農業用水に大変な苦労を重ねてきた。江戸時代中期に考え出されたのが、深さ3~7mに掘った横穴に宮山の湧き水を集めた「間歩(まぶ)(=まんぼ)」と呼ばれる地下水路である。隣の治田村には鉱山があり、その掘削技術が利用されたと推定される。明和末期(1770頃)、庄屋 冨永太郎左衛門は水不足を解決すべく、まんぼの掘削工事に取り掛かり、安永4年(1775)に完成した。約80石の増産になったという。この難工事で全財産を使い果たした庄屋冨永太郎左衛門は完成後、郷里の其の原でひっそりと亡くなった。このことを知った村人は員弁第一街道の脇に墓を建立した。しかし、このまんぼも80年後の安政大地震(1855)で水の出が悪くなり、幕末の文久2年(1862)、庄屋 二井藤吉郎が青川の伏流水を水源とする延長工事を行った。これにより、まんぼの総延長は約1,000mになり、十分な水が供給されるようになった。この功績をたたえ、慰霊碑が建立された。
12. 員弁第一街道
元禄14年(1701)年頃、桑名藩主松平定重が郡代野村増右衛門に命じて宇賀川の水路を現在の位置に川替えするとともに、員弁川両岸の堤防も築かせた。その堤防右岸から百間(180m)を隔てて作らせた道路が員弁第一街道である。現在の桑名市島田から南大社、梅戸、大井田川原を経て、高柳、片樋を通り阿下喜に通じる、当時の産業道路で「市街道」とも呼ばれた。おかげまいり流行時は「お伊勢まいり道」として利用された。また、大神社(おおみわのやしろ)へ祈願する人でにぎわい、「雨乞い街道」の別名があったとも伝えられている。その後、左岸に濃州街道ができ、急にさびれてしまい、地元の人すらその存在を知らぬほどになった。
13. 片樋まんぼ(市無形民俗文化財)
片樋まんぼは、規模において全国一、長さ五番目といわれる大きなもので、テレビなどでも紹介されている。
江戸時代の後期(約220年前)のころ、水田用水を確保するために時の庄屋や村民が一体となって横井戸を堀り、地下水を集めて用水を完成した。いなべ地域では最長のもので長さが1000m近い。規模としては全国で有数と言われている。現在も農業用水として活用されており、美しい水が8haの水田を潤している。年に一度、大寒の時期に「まんぼ浚え」を行い土砂等を排出し、まんぼの維持に努められている。先覚の偉業をたたえ、水利の安全を祈願するため、毎年7月に大神社で「まんぼ祭」が行なわれる。
14. 生水(しょうず)まんぼ
丹生川・片樋地区には18のまんぼがあったが、生水まんぼはその一つで現在も使用されている。松宮礒五郎(明治12年(1879)没)が自費を投じて、西南の方向へ約200m掘り進めたものであるが、大正年間に区の事業として延長されている。
15. まんぼ
まんぼは水不足を解消するため、地表から約2~10m下を素掘でトンネル式に横穴を掘り、地下水を集めて農業用水にしたもので、北勢地区には北勢町治田を中心に多数分布している。イランやイラクの「カナート」がこれに相当する。「まんぼ」の語源ははっきりしない。漢字で「間風」「間歩」「間保」などと書くが、広辞苑に記載はない。「まぶ」(間府=鉱山の穴、抗道)は広辞苑にあり、これからまんぼと呼ばれるようになったとも推察される。
また、谷崎潤一郎の「細雪」に「マンボウとはガード、トンネルのことでオランダ語のマンプウに由来する」とあり、オランダ語が語源ともいわれる。